かさり。

足元で踏みしめた葉の音がした
風の音が遠くで聞こえる。
ジローは陽の落ちかけた西の空に意識を寄せ、目を閉じていた。

鬱蒼と生い茂った木々の中でジローは息を潜めている。
甘い夜が訪れる前の、ほんの一瞬のとき。
闇に支配されない空気の中では、まだ少し身体が重い。
けれど、不思議と意識はどこまでも透明だった。
もう直接は見ることの出来ない光を遠く懐かしく思いながら、とても静かな気持ちでいる。
あれから百年。
こんな風に思いを馳せることなどなかったというのに。
ジローはひとりごちて笑った。

脳裏に描くは、目に熱く滲む燃えるような赤。
血色よりもずっと濃い、あの幻想的で美しい光。
最期に見た夕陽は、短い人生の中で最も美しい色をしていた。
予兆、だったのだろうか。
今ではそう思う。
あのとき既に自分の運命は決まっていて。
もしかしたら、それを少しだけ不憫に思った何か--この世界を統べる誰か--があの風景を見せてくれたのではないか、と。
そして今、もう二度とあんな風に熱く見つめることの叶わない夕焼けが、こうして瞼の裏に焼きついている。
それはとても幸運なことだったと思うのだ。
だから、きっとこれからずっと忘れないでいられる。
今もなお、心を直接掴んで揺さぶり涙を流させるような美しい赤を。


「あにじゃ」


不意に、舌ったらずな声が足元で聞こえた。
振り返り見下ろした先で、いつの間にやってきたのか、弟がよたよたと足に縋りついてきた。
普段とは違う自分の様子に気付いたのか、不思議そうに首を傾げてこちらを見上げている。
ジローは苦笑しながらその小さな身体を持ち上げて尋ねた。


「また、クロウを撒いて来たのですか?コタロウ」

「あにじゃ、さがしにきた」

「そうですか」


そう言って、顔中で笑う弟に微笑み返す。
癖のある金色の髪と、くるくると変化する多彩な表情。
最愛の人の面影を至る所に残す弟。
笑顔も泣き顔も、全て彼女を彷彿とさせて止まない。
彼の人であることに何ら変わりはないはずなのに、その全てが彼女とは異なる。
あの日、半身をもぎ取られたような痛みが薄らいだ今でも、その事実はこの胸に爪を立てている。

生と死はこんなにも隣り合わせで、苦しい。


「贅沢、ですね。お前が此処にいるのに」

「?」


小さな手がひたり、と頬に触れた。
ジローは切なさを押しやって弟に笑いかけた。
触れた温もりに、抱え切れないほどの愛しさを思う。
こうして生きていてくれるだけで今は。

すると、コタロウは不意に大きな蒼い目を眇めて首を傾げた。
長い睫が至近距離でぱちりと音を立てて瞬く。
瞬間、まるでスイッチが切り替わるように異質な空気が場をとりまいた。


「あにじゃ、」


ふと、幼い声が懐かしい響きでシンクロする。


-----ごめんなさい、ジロー。


それは本当に聴覚が捉えた音だったのか。
判断がつかないほど体内に深く響く声だった。
そしてそれはいつかの彼女の言葉だと気付くまでに、少し時間がかかった。


「・・・コタロウ?」


呼びかけには答えず、小さな唇がぱく、と何度が開いて閉じる。
コタロウではない『何か』が、言葉を紡ごうとしている。
背筋の伸びるような視線を向けられ、ジローは口を閉ざした。
これは『彼女』だろうか。
それとも、それとはまた別の。
思考は熱く絡み取られ、覗き込む瞳の奥に、焦がれた光が見えるようで。


「我が、君」


掠れる声で彼の人を呼べば、夕陽とは比べ物にならない眩しさで目が眩みそうになる。
闇の母。たったひとり、自分が愛した。
求めて止まない光を探り、思わずその距離を縮めようとした、そのとき。

ぐぅ。

と、思わず肩の力の抜ける音が聞こえた。


「おなか、すいたー」


へにゃりと笑う弟に思わず膝から崩れ落ちそうになる。
さっきまでの厳かな空気は見事に霧散。
すっかり『弟』に戻ってしまったコタロウは、両手両足をばたばたとさせ騒ぎ始める。
何だか泣きたいような気持ちでジローはため息を漏らした。


「・・・お前は、ほんとうに」


怒るにも怒れず、苦笑は結局力無いものとなってしまう。
けれど、こんな肩透かしは今に始まったことではない。
『今』も『昔』も。
この腕の中の命は何も変わらずに存在している。
失い、得たものとは別の次元でこうして変わらずにいる。


「帰りましょうか、コタロウ」


ジローは小さな身体を抱え直し、尋ねた。
弟は最愛の笑顔でそれに応えてくれる。
それは、記憶の中のどんなに美しい情景よりも鮮明な色で。

だから、もう大丈夫だと思うのだ。
もう自分は二度とこの手を離さない。
二度と失うことなどないように自分に誓ったのだから。




きっと自分は、これ以上何も失くさずに消えていける。










失うものなど何もないと呟いて。
----------------------------------------------------------
2006.11.24

けれど果たして彼女は『血』だけで満足出来るのか。



SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送