本当はずっと、目には見えないものが全てだった。








「俺の胸でなら、いくら泣いてもかまわないと」


目には見えない彼の表情を思うと、他の余計な何かを考えるよりも早く嗚咽が漏れた。
初めは声さえ上げられず。
喉元でせき込むように泣き出した背中に、呼吸を促そうとする優しい手が触れた。


「待、って」


それを制して、手探りで掴んだ服の端を引いて後ろを向くように言った。
その意図を察したのか、ふ、と吐息のように柔らかい微笑みを落として、彼は自分の服を掴む手を取って背中を向けてくれた。
引かれた手に導かれるように半歩足を進めると、すぐに鼻が広い背中にぶつかる。
そのとき香った覚えのある懐かしい匂いに、胸を借りなくて良かったと心底思って目を閉じた。
労り慈しむための腕に抱かれてしまったら、もう此処から一歩も歩き出せなくなりそうで。
そんなのは駄目だと、今の自分の精一杯の悪足掻き。
歩き出すために今立ち止まっているのだから、借りるのは背中で充分だ。
流石に声を殺して上手く泣くことは出来そうになかったけれど、それで構わないと頭の片隅で思った。

結局のところ、自分はずっとこんな風に思いきり泣きたかったのだ。


彼の着ている服の色を忘れた訳ではなかった。
ただ、それよりも大切なことがあったはずだとようやく自分は思い出し始めていた。
すがりつくように握っていた背中の布を放して、空いた手も彼の腰に回す。
溜息の形に空気が揺れると、暖かい両の手が強い力で汚れた手を包み込んだ。
宥めるように何度か手の甲を擦る指先。
潜められた微かな息遣い。
地上ではヘイゼル達が痺れをきらしているだろうに、急かす素振りも見せない。

余計なものに目を閉ざせば、こんなにもはっきりと見えるものがある。


『よかった』


それが彼の真実だと、あの腕の強さが教えてくれる。


『あなたを失うかと思った』


それが数少ない彼の恐怖なんだと、らしくなく掠れた声が教えてくれる。

初めから、そんな彼の心の動きだけを信じて抱きしめていれば良かったのだと気が付くんだ。
いつの間にか全部を欲張ってしまっていたから、彼も自分も、こんなにも傷だらけで。
眠りにつく前の優しい歌や、気付けばいつだって傍に寄せられていた温もり。
全て、あの頃は目に見えなくてもちゃんと信じていられたのに。


「・・・コンラッド」

「はい」


肩越しに振り返る気配がして、どうか間違えていませんようにと彼の瞳のある位置を見上げる。
薄闇の中で確かな視線を感じながら、何度か失敗を繰り返して涙混じりの声を絞り出した。


「ほんとに、ごめん・・・」

「陛下」

「それと、」


咎める声を遮って、震える息を吐き出す。
今伝えないといけないのは、ただ懺悔の言葉だけじゃない。
もやもやとした胸のわだかまりが邪魔をして、ずっと言えずにいた言葉。


「・・・・・・ごめんより『ありがとう』、だよな」


本当に長い間、胸の中で暖め続けた言葉を今ようやく口にすることが出来る。


「捜しに来てくれて、心配してくれて。・・・ありがとうって、俺あんたにずっと言ってなかった」


何度も助けられたのに。
その度に視線を逸らし、背中を向けて。
伸ばされた腕さえ跳ね除けて、酷い言葉を投げつけて。
今瞼の裏で思うよりもずっとはっきりと彼の表情が見えていたのに、目に見えるものを信じようとしなかった。
その罰なのだろうか。
彼にはまだ口を噤んだまま、見えない視界で何度も瞬きを繰り返す。

皮肉にも、今ならあのときよりずっと色んなことが解る気がした。


「だから・・・ああ、やっぱり『ごめん』なのかな」


言葉足らずな思いは果たしてどれだけ彼に伝わったろうか。
訪れた沈黙に小さく俯いてしまう。
唇を結んで息を詰めたそのとき、暖かい手のひらに包まれていた手が風に触れて、彼が身体ごと振り返ったことを知った。
次いで抱き寄せられた肩に上半身の自由を預けると、もう一度長い腕に抱きしめられる。
泣きたくなるような、強い腕の力で。


「・・・謝らないで、ユーリ」


耳元に涙を堪えたような短い溜息が触れる。
彼の言葉を聞きながら、瞬きをした拍子に零れ落ちた滴が音もなく彼の肩を濡らす様を思ってようやく不器用に笑うことが出来た。
どんな顔をすれば良いのか解らなかったのは、彼の瞳に映る自分の顔を見るのが怖かったからだ。
けれど、今ならきっと彼と同じような表情で笑えている。
そのことなら見なくても解るし、信じられる。
いつだって、自分には見えないものが見えていたのだから。


「そんな必要がないんです。言ったでしょう?」


コンラッドは何度目かになる台詞を、ことさらゆっくりと発音してくれた。
まるで魔法の言葉を口にするように微笑って。
まるで小さな子供に当たり前の愛を囁くように。



心配するのが、俺の仕事だって。




そう、だからあんたは過保護だって言われるんだよ。

涙に呑まれた声は、なのにどうしてか上手く彼に伝わって。
こめかみにそっと押し付けられた唇が小さく「そうだね」と笑った。
















「 a p p e a r 」

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2006.05.04
思い出したのは、信じようと思う気持ち。



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