「コンラート!」
突然の怒声に、目を開ける。
ぼんやりとした目を向けると、乱暴に開け放たれた扉を同じようにして閉める弟の姿。
上半身だけを起こして金具が悲鳴を上げる音に肩を竦めてみせる。
と、それさえも気に入らないのか、ヴォルフラムは足音も荒くベッドサイドに近付いてきた。
「ユーリが帰った途端熱を出すなんて、情けないにも程があるぞ!」
その今にも首を締め上げてきそうな形相に、ようやく「今」の自分を思い出す。
幸せな夢を見ていたのだと、ようやく気付くことが出来た。
コンラッドはやれやれ、と片手を上げて降参の意を示した。
「ああ、その通りだよヴォルフ。気合が足りてない。解ってるさ」
「解っているならっ」
そこまで言って、不機嫌そうに顔を背けてしまう。
僅かに朱の差した頬に、思わず笑みが込み上げる。
続く言葉も、いつも以上に乱雑な仕草の理由にも気付いてはいたけれど、そこでつい意地悪をしたくなるのが嫌われる所以なのだろうか。
「何?ヴォルフ」
咳を誤魔化すフリで口元を覆ってみたが、どうやら無駄だったらしい。
「・・・ッお前は、!」
クッションを投げつけられながらも笑っている兄に根負けしたのか、ヴォルフラムはあっさりと背中を向けてしまった。
そのまま部屋を出て行くのかと思いきや、扉に手をかけたところでその動きを止める。
「・・・グウェンダル兄上からの伝言を、預かって来た」
「ああ。それで来てくれたのか。何だって?」
「『三日の休暇をやる。その間部屋から出るな』だそうだ」
扉と対面したままで長男の口調を真似た弟は、そこでようやく息をついた。
「・・・強制休暇か。解った。グウェンにもそう伝えておいてくれ」
見えないことを承知で片手を上げて見せると、ヴォルフラムは役目は果たしたと言うように肩に力を入れ、扉を開け放った。
しかし、ほんの一瞬躊躇うようにその動きを止めた彼に、コンラッドは首を傾ける。
ヴォルフラムは扉に手をかけたままでほんの少しだけ振り返り、視線を床に落として口を開いた。
「・・・三日だ。」
「うん?」
「それまでに、治しておけ」
言うが早いか、来たときと同じ荒さで扉が閉まる。
足音が遠ざかって、ようやく笑い出すことが出来たのはもしかしたら幸いだったかも知れない。
「有難うくらい、聞いていっても良いのに」
もしもあの頃の夢の中で彼と遭遇したなら、と考える。
記憶の中の優しい季節で、けれどあの弟は血を吐くように自分を罵ったろう。
あんな表情は、決して見られなかったに違いない。
今合わせる瞳は、深い湖の底を思わせる色そのままに優しい。
睨め付けてくる強い目は、憎しみを欠片も映してはいなかった。
それくらい長い時が過ぎたのだと気付く。
(三日が空けたら、先ずは顔を見に行こうかな)
嫌がる顔が想像出来たが、礼を聞かずに逃げた報いだとコンラッドは笑った。
そのとき。
ふと手元に落とした視線の先、真新しい傷痕に目が止まった。
乾ききった赤い切り傷。
まず思い出したのは、彼が触れた手のひらの温度だった。
それに、微かな消毒液の匂い。
悪戯な笑顔。
それと、まだ叶えていない約束。
ほんの数日前の出来事を、少しだけ懐かしく思い返した。
「うぅ、見てるだけで痛い」
ユーリに取られた指の先、ひとさし指の先には赤い線が滲んでいる。
紙でついた傷は真一文字に綺麗に切れてはいるが、普段なら舐めて放っておいてしまうようなものだ。
けれどそれを見咎めたユーリが座れ、と命令したからこうして手を差し出している。
丁寧に脱脂綿を消毒液に浸して、指先に触れさせる。
傷口がじくりと痛むと同時に、ユーリが顔を顰めた。
「すいません」
「? 何が」
まるで、痛みをうつしてしまったようだから。
先の言葉は言えずに、指先を見つめる。
消毒液の乾きかけた傷口は、痺れるような痛みも薄くなる。
「ん。消毒おしまい。傷テープでも貼っとく?」
「いえ、大丈夫ですよ。有難うございます」
「そっか。それにしても珍しい凡ミスだよなー。書類でこんな綺麗に指切るなんてさ」
「すいません」
ユーリは消毒液を傍らに置き、仕方ない、とでも言いたげな顔で笑うと、もう一度コンラッドの手を取った。
真新しい傷痕を一瞥し、赤ん坊が母親の指先を握るように柔らかく強く包み込む。
「もしかして、疲れてたりする?あんた顔に出さないから解り辛いけど」
ユーリは手を取ったままでじっと視線を合わせてきた。
真っ直ぐ見つめてくる瞳は、何もかもを見透かすような深い濡れ羽色だ。
「そうかも知れませんね。あなたがそう言うのなら」
そう言うと、ユーリはきょとんとした顔で瞬きを繰り返した。
彼は本当に不思議な人で、自分には彼のどんな言葉も真実のように聞こえてしまう。
彼が、見なくても解る自分の表情があるというのならそうなのだろうし、疲れているだろうと言われるとそうかも知れないと思う。
だから、夢の中でしか描けないような絵空事も、彼が思えば確かな未来になる気がして。
呼吸をするような自然さで理想を現実に変えてしまう。
彼には、そんな力があるのだと思っていた。
「・・・熱はなさそうだけど、なーんか反応も鈍いしなぁ。休んでろよ、コンラッド。俺も今日は部屋から出ないし。それなら護衛も必要ないだろ?」
言うが早いか、するりと温かい手が離れていく。
思わず追い縋りかけた自分の指先を握り込んでから、コンラッドは僅かに視線を下げた。
「どした?」
「いえ・・・」
上手い言い訳が思いつかず、何でもないと笑おうとしたところで、彼が「あぁ、」と声をあげる。
そうして徐に膝を折った彼は、まるで愛娘に向けるような表情でこちらを見上げて言った。
「あんたでも、ひとりは嫌だなんて我侭言うんだな」
そのあんまりな表現に、一拍置いて笑い出した彼と一緒に噴出してしまう。
言葉に出来ない思いを彼の言葉で直すと、いつだって子供の我侭で片付けられてしまう。
傍にいたい理由は聞かれずに、その必要もないのだと教えてくれる。
だから、こうして自分を繕わずに済む。
「じゃあ、此処でならいいだろ?」
「此処?」
言うが早いか肩を押されて、ソファに沈み込む。
立ち上がり見下ろす彼は、満足げに頷いて言った。
「俺、午後はマジメに仕事するからさ。コンラッドも此処で休んでれば護衛も兼ねられて一石二鳥だろ?」
そして、目を閉じろと急かす手のひらが瞼を覆って、いつもは暖かいと感じる手のひらが少しだけひんやりとしていた。
「その代わり、治ったらまた付き合ってもらうからな」
「いつもの?」
「キャッチボールと、あと遠乗り・ハイキングも。グレタとかヴォルフも連れてさ」
「それはまた楽しそうですね」
いつの間にか囁くような声音になり、くすくすと笑う声が遠ざかっていく。
もう少し彼と話をしていたいのに。
もう少し彼の声を聴いていたいのに。
触れた手の温もりの心地よさに抗えず、心地良いまどろみに意識が奪われてしまう。
そうして目を閉じている間に彼はあちらに戻ってしまったから。
結局、あの約束はまだ叶えられていない。
(・・・眠っている間に還ってきてくれたら良いのに)
目を閉じている間に消えてしまった彼が、次に目を開けたときそこにいてくれたら良いと思う。
まるでずっとそこにいたような顔で、「おはよう」と笑ってくれたら良い。
夢の話を彼に聞いてもらいたいたかった。
それは、綺麗な空の色を一部分だけ切り取ったような都合の良い夢だったけれど。
彼がまだ彼女だった頃。
誰もその先の未来を知らずに生きていたあの頃。
夢の中でしか呼べない名前や、鮮やかな色を残して少しずつ薄れていく面影。
そうして思い出せなくなることも、これから増えていくだろう。
忘れずにいられることは、きっとそう多くない。
だからこそ、忘れないうちに。
まどろみ始めた意識の奥で、昔の夢が手招きをする。
優しい声で、眼差しで名前を呼ぶ。
返事をすれば、きっとまた思い出が鮮やかに蘇るだろう。
喜び・悲しみ・痛み・希望。
その全てを。
あなたに、話したいと思った。
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2006.02.19
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