思い出すのはいつだってたったひとり、あの。
(・・・あぁ、とうとう降りだしたか)
光の差さない地面と湿った空気に隠れた雨の匂い。
見上げると予想通り、長い雨を予感させる空にコンラッドは長く息を吐き出した。
煩わしさがそのまま顔に出るのが解ったが、取り繕うべき相手もいない。
雨は好きじゃない。
今日のように、心まで冷やしてしまいそうな冷たい雨は。
そうして静かに振り出した夕立を見上げていると、ふと、記憶の底で誰かが自分の名前を呼ぶ声を聞いた気がした。
「あちゃー雨だよ、コンラッド」
執務の合間、グローブを手に嵌めた正にそのとき、ユーリは頬を打った雨粒にコンラッドを見上げた。
「あぁ本当だ、仕方ない一旦中に入りましょう陛下」
「あーあぁ、折角の休憩時間がー」
嘆くユーリの背中に触れて、雨を凌げる軒下へと促す。
途端に勢いを増しバラバラと降り出した雨に顔を見合わせ、どちらからともなく苦笑が漏れる。
「こっちでもこんなスコールみたいなのあるんだな」
「夏ですからね。でも、ただの通り雨のようだしきっとすぐに止みますよ」
「だといいけど」
薄い雲が太陽を透かせ、光は辛うじて地上に届かない。
きっと風が吹けば飛ばされそうな頼りない雨雲を見つめ、ユーリは僅かに眉を寄せた。
焦れるようなその表情に、コンラッドは尋ねた。
「雨は嫌い?」
「俺?いや・・・うん、嫌いじゃないよ。ただ」
「ただ?」
「外、行けなくなるだろ。だから」
嫌いじゃないけど、つまんないかな。
小さく付け足された言葉にコンラッドは思わずふ、と息を漏らす。
ユーリは耳聡くそれを聞きつけると、口元を覆ったコンラッドを横目で睨んだ。
「笑うなよ」
「すいません、つい」
「自分でも解ってるよ、子供っぽいこと言ってるって」
「そんなこと思ってませんよ」
グラブを弄りながら唇を尖らせたユーリにコンラッドは笑いながら謝罪する。
一足早くグラブを外したコンラッドは、ふと何事か思案するように宙を見た。
既に陽の差し始めた空から降る雨は先ほどのような勢いはもうない。
それなら。
コンラッドは軽く頷きユーリのグラブを取り上げると言った。
「雨はつまらない、ね」
「だから、それはもう」
「それなら雨も好きになってもらおうかな」
含みのある笑顔で手を差し出したコンラッドに、ユーリはきょとんと首を傾げる。
「何?」
「少し歩いてみませんか、これくらいの雨足なら平気でしょう?」
「・・・珍しいな、コンラッドがそういうこと言うの」
「夏の雨なら少しくらい濡れても大丈夫。さぁ、ユーリ」
行こう。
そう笑ったコンラッドに、ユーリは訳が解らないながらも自分の手のひらを重ねる。
ぎこちなく握られた手を確かな力で握り返すと、コンラッドはユーリの先を歩き出した。
霧のような雨の中、勝手知ったる中庭の奥へと入っていく。
静かな雨音以外は鳥の鳴き声もしない。
そう言えばこんなに奥まった場所まで足を踏み入れるのは初めてだと気付く。
いつもはキャッチボールをする場所も、コンラッドが一緒だから赦される立ち寄り場所だったからだ。
基本的に一人歩きはさせてもらえない立場だけに、こんな風に知らない場所がまだまだ沢山あるのだろうな、と少し好奇心が疼いた。
「何か不穏なことを考えているでしょう、陛下」
「・・・考えてマセン」
心の内を見透かされてしまい、罰の悪い思いで肩を竦める。
拍子に、前髪についた水滴がいくつか弾けた。
夏の雨はべたべたと肌に纏わりつくだけで好き好んで濡れたいとは思わなかったユーリも、何となくコンラッドの言うことが解る気がした。
空気が綺麗なのか、空が綺麗なのか。
こちらの夕立は雷も呼ばず、空気を冷やしてただただ気持ちが良い。
一歩先を歩く背中を見上げると、湿った前髪が視界を遮ったが、それでもコンラッドの表情だけは見えるような気がして。
「コンラッドは雨、好き?」
「どうしてそう思うんです?」
「何か嬉しそうだから、さ」
「どうかな。嫌いではないけれど」
含みのある声でそう言われてしまうと、ユーリは口を閉ざすしかなくなる。
変なところで意地悪な名付け親に、見えないことをいいことに小さく舌を出してみせた。
すると。
「ユーリ、着きましたよ」
視界を開くように身体をずらし、コンラッドが振り向いた。
彼は舌を出したままのユーリを見て小さく笑うと、その手を引いて足を戻し隣に立った。
見て、と耳元で囁かれ、彼が指し示す方へ顔を上げる。
すると。
「・・・うわ」
見上げた先で、光の泡が弾けた。
「夕立の後、時々見られるんです」
木々が少しだけ開けた頭上で雨露が微かな木漏れ日を受けて降り注いでいた。
雲間から覗いた太陽は、それでも薄い雲に遮られて完全には光を照らさない。
パラパラと音を立て、降り注ぐ水滴はまるで光の粒のようだ。
見上げると頬に当たるのは光の結晶だと錯覚すらしそうになる。
ささやかに色づいた光は人工のそれよりも優しく、ずっと美しい。
淡い淡い、触れたらすぐにでも止んでしまいそうな虹色の雨。
それは、夏の通り雨が生んだ、幻想的な空間。
「綺麗でしょう?」
「うん・・・」
「気に入った?」
「うん。ちょっと、感動した」
「それは良かった」
コンラッドは微笑って、繋いだ手をそっと揺らした。
その珍しく子供染みたな仕草に彼を見上げると、何だかいつもより笑顔が深い気がする。
何となく、長い年月を感じさせるような、そんな優しい。
ユーリは不思議に思い、尋ねた。
「何かしてやったりって感じだけど」
「昔ね、見つけたんですよ。あなたが好きそうだと思ったから、いつか見せたいとずっと思ってたんです」
だから、今日見せられて良かった。
囁くように微笑ったコンラッドに、ユーリは口を閉ざす。
瞬間浮かべた驚きの表情に、今度はコンラッドが首を傾げる番だった。
目線で問い掛けると、ユーリはくすぐったそうに肩を竦めて見せた。
「な、それっていつの話?」
「ユーリがこちらへ来る少し前、かな」
「少し前、ね」
「ええ」
薄く朱に染まった頬に雨粒が落ちているのを見て取り、コンラッドは一言詫びてから空いた方の指先でそれを拭った。
「きっと、気に入ると思ったんだ」
小さな嘘はきっと見破られているだろう。
困ったような、それでいて緩んだ口元が問い質すべきかどうかを決めあぐねているように見えて、コンラッドは視線を逸らすように頭上を見上げた。
「雨は嫌い?ユーリ」
再度尋ねるコンラッドに、解ってるくせに。と言いたげな、そんな表情を浮かべる。
「好きになれそうな気がする。・・・っていうか、」
あんたがこれから好きにさせてくれるんだろ?
繋いだ手を握り直し、ユーリは穏やかに微笑んで、言った。
パシっと耳を打った水音に我に返ると、濡れて色濃くなった髪が頬にかかるまでになっていることに気付く。
そう長い間雨に打たれていた訳ではないのに。
コンラッドは頬を乱暴に拭うと一度だけ頭を振った。
頬を流れる雫は氷のように冷たい。
優しさの欠片もない雨は容赦なく体温を奪う。
涙のように降り注ぐ雨を見ながら、コンラッドはやはりこんな雨は好きじゃないと思った。
温もりを忘れてかじかんだ指先が雲の向こうにあるはずの太陽を恋しがる。
雨の日も曇りの日も、変わらず自分を照らす光があったあの頃はこんな切なさは忘れていられたけれど。
今は少しだけ、冷たい雨が悲しいと思う。
もしも、もしも未だ願うことが許されるのならば。
こんなに冷たい雨に打たれないで。
悲しい顔で空を見上げないで。
あの日見た景色だけを思い出して、笑っていて。
そして、どうか。
(・・・同じ気持ちで、いないでいてくれたら)
ただ、願うことしか今は出来ないけれど。
15.好きじゃない、なんて言っても
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2005.08.14
本当はただ、あの日の雨を思い出せば辛くなるから。
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