別れるために出逢うのなら、そんな出逢いはいっそ初めからなければ良いと思う。
そんな悲しいことを、時々考えてしまう。
毎日は確かに大変で、ごくごく平凡に生きているつもりでもただ歩くだけで傷が増えていく。
それ自体は仕方のないことだと思っても、足を止めることだけはしないと心に誓った。
繋げずに離れた手もあった。
それでも、別れるために、傷付けあうために出逢った訳じゃないと信じたかった。
無数の切り傷に似た痛みを抱えて、それでも歩いて行こうと思えるのは、ささやかでも確かな幸せを知っていたからだった。
決して数は多くはないけれど、確かに自分は幸せに触れていた。
だから大丈夫だと、ずっとそう思っているんだ。













此処に来るのはどれくらいぶりだろう。
ユーリは持ち主が消えてから訪れることのなかった部屋の前に立ち、思った。
指折り数えるまでもない。
ただ少し懐かしい気がするだけだと自分に言い聞かせる。
鍵のかかっていない扉の前で立ち竦んでいても仕方ないだろうと。
唾を飲み込み、扉を三回、強めにノックする。


(返事なんかないって解ってるよ)


シン、と廊下に響いた音に知らず詰めていた息を吐き出す。
元より誰もいない部屋だ。
こんなことでいちいち緊張して傷付いて淋しくなる心臓は、一体いつになったら学習してくれるのか。
肩を竦め、思うよりも軽い力で押し開いた扉をくぐる。
室内に足を踏み入れると、記憶の中そのままの、いくらか生活感を失った部屋にたちまち気後れしそうになった。
胸が詰まる感覚にも、いい加減慣れても良さそうなものなのに。


(・・・コンラッドの、匂いだ)


後悔したのは、部屋中の至る所に彼の気配が残っていたからだ。
机の上のペンや紙、少しだけ引かれたままの椅子に、整頓された本棚や洗濯された筈の真っ白なシーツにまで。
此処には確かに「彼」がいたのだと。
まるでそう言われているようで。


「・・・・・・」


後ろ手で扉を閉めると、そのまま扉伝いにずるずると座り込んでしまう。
所在の無さを埋めるように膝を抱えると、もうこれ以上中には足を踏み入れることが出来ないと思った。
残り香にさえ泣きたくなるなんていうのは重症じゃないのか。
ユーリは溜息をついて少しだけ顔を上げた。


(こんなに淋しい部屋だったかな)


あの頃はもっと暖かい、陽の光の入る部屋だったような気がするのに。
見つめた先では薄いカーテンが陽射しを吸い込んでぼやけた光を醸し出しているだけ。
一通り部屋を見渡し、ユーリは再度膝に顔を埋めた。

ずっと避けていたはずのこの部屋に立ち入ることに決めたのは心の準備をしなくてはならないと思ったからだ。
いつまでも中途半端な気持ちで待ち続けることなんて出来ない。
思い出はひとつずつ整理して、丁寧に大事に、鍵をかけて仕舞うつもりだった。
彼に一番近いこの部屋で、全て思い返して泣こうと思った。
なのに。


「思い出すことなんか、今更ないんだよな・・・」


彼のことを考えなかった日なんて一日だってない。
落とされた左腕の残像も、最後の笑顔も、耳には届かなかったあの謝罪の意味も。
そしてあの日、手を取ってもらえなかった瞬間からもそれはずっと。

ただ、あれ以来瞼に浮かぶ彼は以前のように優しく笑いかけてはくれない。


(・・・無表情のくせに、何であんな辛そうなんだよ)


冷たい態度で突き放して、それなのに時折苦しい表情なのを知っている。
自分で望んだんじゃないのか。
そう言おうと開く口はいつも暗い瞳に閉ざされてしまう。
あんな瞳をしていただろうか。
あの頃、陽のよくあたるこの場所で、彼は一度だってあんな表情をしたことがないのに。
そう思うと、堪らなくなって思わず手を伸ばしたくなる。
服の裾を掴んで、名前を呼びたくなってしまう。
何でそんな表情をしてまでそんな服を着てるんだ。
どうして帰らないと首を振ったりするんだ。
きっと、答えてはくれないだろうけど。


(だからって、こんな風に終わりたい訳じゃない)


今の自分たちの間に何ひとつ真実がないことには気付いていた。
誤解と疑心と。
本当に、少し前の自分からは考えられないものばかりだと思う。
どうしてこんな風になってしまったのだろう。
何処で間違えてしまったのだろう。
あんなに近くで、ずっと一緒にいたのに。


『胸でも肩でも命でも』


謳うように彼が言った言葉に苦笑を返したのは、本気を知らなかったからじゃない。
大袈裟だと思えるような言葉も、彼はひとつだって嘘をつかなかった。
そうして思い出すのは本当にくすぐったいような優しさばかりで。
どれだけ大切にされていたのか、今更のように気付くのだ。
まるで奇跡のように、傍にいて欲しいと思うときには傍にいてくれた。
名前を呼べば、いつでも傍に。


『ユーリ』


どんなときも変わらず向けられるあの笑顔が好きだった。
おかえり、と差し伸べられる手はかけがえがなくて、さりげなく隣にあった腕で守られていたのは命だけじゃなくて。
どうして今まで気付かなかったんだろう。
平気な顔でいられたんだろう。
あんなに大切にされて、どうして。


(・・・バカだ、本当に)


涙の気配の雑じった溜息を吐き出して、ユーリは目をキツク閉じた。
この部屋は彼を思い出しすぎる。
熱く滲んだ瞼を開けばいつもの笑顔を浮かべた彼がいそうな気がするほどに。
うずくまっている自分のところへ控えめな足音が近付いてきて、そうして『どうしたんですか?陛下』と覗き込んで聞くのだ。
『陛下って呼ぶなよ、名付け親』といつものように返したら、彼も同じように返してくれるのだろうか。
『すいません、つい癖で。』
名前を呼んでくれるだろうか。
夏を乗り越えて強く育つように、そんな願いが込められた、あの。






ユーリ。






「・・・ッ!」


ユーリは反射的に顔を上げて辺りを見回した。
声が聞こえた気がした。
耳元で囁くような、あの低く優しい声が。
しかし、夕陽が差し込み始めた部屋には自分以外に誰もいない。
シン、とした黄昏時の空気の中、震える吐息だけが静かに落ちる。


(何、期待してんだ)


帰らない、傍にいない、戻らない。
いくら名前を呼んでも、どれだけ願っても。


「・・・そうだよ、解ってたはずだろ」


彼はもう、おかえりと手を差し伸べてはくれないのだと。


けれど、それはあまりに突然だった。
口にした瞬間、その当たり前だった筈の事実が急に髪の先から爪先まで一気に駆け巡り、衝撃に、一瞬だけ身体が震えた。
鳥肌の立った腕を擦りながら自分の身体を抱き締めると、張り詰めていた筈の胸がすぅっと空くのが解った。
唾を飲み込むのもやっとだった空間が呆気なくぽかりと口を開ける。
ぐらりと視界が歪んで、頬に手をやる。
温かく濡れた指先にユーリは思わず笑った。


(あぁ、やっぱり無理だったんだ・・・)


次いで熱い息を吐き出したときにはもう、笑っていられなかった。
喉の奥から込み上げる嗚咽を噛み殺すと、子供の頃のようには上手く泣けない。
淋しい、悲しい、悔しい、苦しい。
歯を食いしばると涙の味が口内に広がる。
息も出来ないほど涙が後から後から溢れてくる。
最後に泣いたのはいつだったか、もう思い出せないほどで。
涙の止め方も、忘れてしまった。


『深く息を吸って』


いつか彼が言ったけれど、今の自分には実行出来そうになかった。
今、背中を叩いてくれたら。
泣かないでと、そう言ってくれたら。
それだけで、きっと充分なのに。


(仕舞いきれない、忘れられない、忘れたくない・・・!)


浅い呼吸を何度も何度も繰り返して、ユーリは思った。
思いは大きすぎて形を取れず、ただ自分の中で曖昧な輪郭を保つだけだ。
けれど、そんな心の一部を切り捨てる痛みを思うなら、このまま傷付いている方がどれだけマシか解らない。
未だ何も終わっていないのだ。
諦めることなんて、自分には最初から出来なかった。


「・・・あんたは、また、愚かだって言うのかな」


喉が苦しげに鳴る。
ゼ、と吐き出した声は殆ど声にはなっていなかった。
それでも、ユーリは未だ止まらない涙を指先で拭いながら微かに笑みを浮かべる。
切なさで潰れそうな胸は、けれど同時に酷く満たされる思いだった。
決して幸せな気持ちではないけれど、それでも自分は望んでいたんだと気付いた。


(本当はずっと、あんたのことだけ考える時間が欲しかったんだよ)


淋しい、悲しいなんていうのは当たり前で。
ひとりになったら泣くんだろうなと彼と離れたあの日からずっと考えていた。
けれど、自分は今日までちゃんと泣けないまま。
辛かった、苦しかった。
それは、彼とちゃんと向き合えなかった所為だ。

涙を流しすぎて痛むこめかみに、そっと濡れた指先を当てる。
守るものの定義も、命をかけることの意味も解らないままで。
だから本当は、今でも彼の苦しみ・願いを理解出来ないままいる。
けれど、どうしようもなく信じてしまっているのだから、もう仕方がないと思う。
痛みを知らないままでは理解出来ないなら、今度は自分が傷付く番なのだろう。


(――――大丈夫)


もう、迷わない。
諦めない決意は、失う覚悟よりずっと容易く胸に宿った。









カーテン越しの夕陽がぼんやりと足元に熱を伝えてくる。
影が濃くなり、闇に包まれてしまうまでは未だ時間がある。
それまでもう少しだけ。
ユーリは扉に寄りかかって頭をつけ、重くなった瞼を閉じた。


『ユーリ、こんなところで寝たら風邪をひきますよ』

『大丈夫だよ!だから、ちょっとだけ見逃してコンラッド』

『・・・仕方ないな』


そう言って、上着を貸してくれた笑顔を思い出す。
太陽の匂い。
それから、夕陽に似た仄かな体温。




思い出して、少しだけ泣いた。

















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2005.07.13
待っているよ。
いつかあなたがそうしてくれたように。



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