世界中が平和でありますように。
それは、とても大それた願いだった。
世界の広さを漠然としか理解出来ずに、傍に在る人達さえ笑顔でありさえすれば良かった。
そんな、あの頃の自分にとっては。
「根本的には同じだと思うけど」
ジュリアは手を後ろで組み、軽やかに爪先立ちで歩いている。
靴を脱ぎ捨てた裸足の足。
芝生をゆっくりと踏み分けるその足が傷付かないよう、コンラッドはその横を同じ歩幅でついていく。
「同じかな」
「同じよ。だって、皆に笑っていて欲しいんでしょう?」
そう言って、解いた細い指先を口元に当てる。
口元が微笑むまでの一連の仕草に見惚れながら、どうしたら同じように笑えるのかを考える。
同じように笑うことが出来たら。
憧れより深く、妬みと呼ぶには些か微笑ましすぎる思いで、その綺麗な横顔を見つめる。
きみのようになれたら。
そんなことを、いつも考えていた。
「それとも、私が狭い世界で生きているだけかしら」
「ジュリア」
諌めるように名前を呼ぶと、彼女は何故か嬉しそうに視線を向けてくる。
「嘘よ。ごめんなさい」
まるで好きな歌を口ずさむかのように言って、彼女は踵を下ろし、立ち止まった。
「ねぇ、あなたに見える世界はどれくらい広いの?」
両腕を空にすらりと伸ばして、彼女は尋ねた。
その広さを自分の腕で測るように、伸ばした腕をゆっくりと開く。
細い腕が綺麗な線を描いて、まるで空を抱きしめようとしているようだ。
「きっと、とても広いのね。こんな風に腕を伸ばしたくらいじゃ全然足りないのよね」
満足げに頷き、彼女はコンラッドの返事を待たずに背中を向けてしまう。
つ、と上げられた視線は、恐らく春にしては高すぎる位置にある太陽に向けられている。
両腕を交差し、目を庇うように光を見つめる。
一歩踏み出してその横顔を窺うと、彼女は目を閉じて空を見上げていた。
気配を察したのか、薄く瞼を開いて彼女は尋ねる。
「ねぇコンラッド。あなた、目を閉じて太陽を見たことがある?」
「ないかな」
「じゃあ、やってみて」
彼女の隣に立ち、誘われるように目を閉じる。
金色に染まった瞼がじり、と光の温度を伝えてくる。
熱くはない。
けれど、温かすぎて涙の滲む温度だ。
「見える?」
ふわりと背中から肩に置かれた手は、まるで子供の背中を押す母親のような優しさで問い掛ける。
「これが、私の見える世界」
見えない光を、それでも感じることなら出来るのだと彼女は言った。
色を感じることは出来ないけれど、こんなに近くに光を感じることが出来る。
鼓動が、血の流れる音が聞こえる。
瞼越しに伝わる熱。
目に痛いほどの、白。
これが、きみに見える世界。
「この世界は光で溢れてるのね」
まるで宝箱みたい。
そう呟いた彼女の中で、見えない色がきらきらと踊りだすのが解った。
(だけど、目を開けてきみが見てる世界は、きっともっとずっと綺麗だ)
コンラッドは静かに目を開き、そんなことを思う。
彼女も、そして自分も。
想像がつかないほどたくさんの色がこの世界には溢れている。
そしてこの場所はとてつもなく広くて、遠い。
彼女の髪を揺らす風の行方は、きっと一生知ることは出来ない。
空に浮かぶ真っ白な雲は、昨日そこにあったものとは同じじゃなく、明日の雲もまた今日とは異なるものなのだという。
空気が、光が何処から生まれて、どうやって消えていくのか。
生きる上で知る必要のない事実は、なのに人を惹きつけて止まない。
そう。それはまるで、きみのように。
(きみに見える世界を垣間見ることが出来れば良いのに)
そうしたらきっと。
「ねぇ、コンラッド」
呼ばれて振り返ると、爪の先まで綺麗な指先が、鼓動を掴むように左の胸に触れた。
「私、あなたが見せてくれる世界が好きよ。あなたの言葉をなぞればちゃんと見えるの。今こうして立っていられる、この場所がとても好き。だからね、」
ここに生きる全ての人が皆、幸せであれば良いと思うの。
何も映さない瞳は、けれどどんな感情の揺らめきも見逃さない。
全てを見透かすような視線に貫かれて、コンラッドはそっと笑んで細い指先を掬った。
「俺も、そうあれば良いと願っている」
彼女は子供の表情で頷いた。
「あなたに教えてもらいたいことがあるの」
「何を?」
「そうね、例えば空の色を」
「空の色」
「そう。どんな色をしているのか知りたいの」
そう言って空を仰いだ首筋が、酷く透明に近付くように見えた。
白く透き通って、そうして高く空に上ってしまったら区別がつかなくなってしまいそうで。
指先を頼りなく握りながら、白昼夢を見ているような気分になる。
憧れを映した視線を下ろし、彼女が微笑む。
「あなたに、この世界のことをもっと教えてもらいたいの」
「・・・そうだな、」
空を仰ぐ。
まるで童話に描かれるような透き通る空の色を、どう彼女に伝えようかと言葉を探す。
この美しい世界を見つめ、光の色を言葉に代える。
そう、きみがそれを望むのなら、きみの目になるのはとても容易い。
足りないのは色だけ。
だけど本当は、それさえも彼女にとって不足ではなかった。
目に見えるものはいつだってそれ以外の感覚で正しく捉えられていたから。
見えるものに惑わされることがない分、彼女はいつも真っ直ぐそこに立っていた。
「ああ。これならきっと、解るかな」
憧れたのは、その姿勢。
その、瞳。
「昼間の空は、きみの瞳と同じ色をしているよ」
ジュリア。
俺は、そんなきみの真っ白な世界そのものになりたかった。
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2006.01.17
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